●近世(江戸~戦中)
農民たちが戦った時代です。小国に様々な産業が興ります。
1624 |
寛永1年 |
小国を東組(大肝煎千谷沢佐藤三九郎)と西組(大肝煎横沢山崎忠助)に分ける |
1667 |
寛文7年 |
小国地方、干ばつや冷害にあう。難波小右ェ門が蔵を破って窮民に食料を分け与える |
1684 |
貞享1年 |
二本柳村は渋海川の洪水を避け、宇島田仲川原から現在の法坂地内北小屋へ移住する。立ヶ島村も法坂地内八日町へ移り、廃村となる |
1735 |
貞享1年 |
享保20年 宮川四郎兵ェ、三樋・苔野島に宮川新田をひらく |
1760 |
宝暦10年 |
長岡藩預かりの天領は高田藩預かりとなる |
1818 |
文政1年 |
脇野町代官所支配の天領は上の山藩領となる |
1834 |
天保5年 |
法坂の山崎茂兵ェ、刈羽郡桑名御領所の郡中取締となる |
1862 |
文久2年 |
桑名藩預かりの天領は長岡藩領となる。このころ星野藤兵ェが苔野島で渋海川瀬違工事をする |
1864 |
元治1年 |
「産物見立取組」(越後土産)に小国和紙が載る |
1866 |
慶応2年 |
滝谷琢宗、肥娯林で大蔵経閲読すること5年。そのかたわら、近隣の子弟に漢籍詩文を教える |
1867 |
慶応3年 |
長岡藩郡奉行河井継之助、真福寺に泊まり、肥娯林に琢宗を訪ねる |
1868 |
明治1年 |
薩長軍の高遠藩兵、原村に陣をとる |
1873 |
明治6年 |
山口権三郎、私費で私立金沢校を設立。(明治8年金沢小学校と改称) |
1877 |
明治10年 |
小国和紙の生産が全盛期を迎える |
1889 |
明治22年 |
市町村制試行により、千谷沢村、中里村、増田村、結城野村、森山組合村が誕生 |
1922 |
大正11年 |
楢沢・塚山間に乗合自動車が通る |
1929 |
昭和4年 |
このころ苔野島小作争議全盛 |
■瀬違え新田(せがえしんでん)
瀬違えを行った現在の様子
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「瀬違え新田」とは、くねくねと蛇行した川筋を工事によってまっすぐな川筋に変え、それまで川が出っ張っていた場所に新しく作った耕地のことです。
江戸時代、少しでも田を広げ収穫量を増やしたいという願いから、人々が手に鍬を持ち、渋海川の川筋を変える事業を度々行い、耕地を増やしました。渋海川ではこうした瀬違え新田をいたるところで見ることができます。 |
■小作争議
大正時代の終わり頃の農家は、耕地を持っている地主と、それを借りて耕作している小作とに分かれていました。小作たちは土地の借り賃である小作料を地主に納めていましたが、収穫量の50%にも及ぶ小作料に苦しみ、小作料の引き下げや条件の改善をもとめて争議を起こしました。地主対小作の戦いは全国で起こり、小国でも激しい争議が繰り広げられました。戦後の農地改革で地主制が廃止され、小作争議はなくなりました。 |
■山口権三郎
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大庄屋山口家の長男として1838年に生まれました。明治19年には石油産業の重要性に着目し、日本石油会社を設立しました。当時石油は石油ランプしか需要がなかったため、石油ランプにかわる新しいエネルギー源として電気に注目し、小千谷に水力発電所を作りました。また、あらゆる産業の中心には銀行業があるとし、明治29年には小千谷金融会社・長岡銀行を設立。現在の北越銀行の前身となっています。そのほか、鉄道事業にも着手し、明治31年には信越線、直江津・新潟間の開通に尽力しました。小国で生まれた山口権三郎は、明治の新潟の実業界に大きな足跡を残しました。 |
■小国和紙
小国和紙 |
小国は紙漉(す)きの産地として古くからその名が知られていました。1682年、山野田村の30戸で農耕の傍ら紙漉きを行っていたのが小国和紙の起源とされています。紙漉きは小国郷全体で行われており、特に上小国地区で盛んでした。和紙は桑科の植物、楮(こうぞ)を原料としています。楮はもともと山野に自生していましたが、紙作りが産業として発達してくると畑で楮を育てるようになりました。明治10年には小国和紙の生産が最盛期を迎え、山口権三郎は明治24年、高知県から紙漉き職人を講師に招き、改良抄紙伝習所を開設して小国和紙の改良に力を入れました。昭和48年には小国和紙は国の文化財に指定されました。 |